私は高校時代は理系、
大学は日本史学専攻です。
導かれたとした思えない流れで
日本史を學んだことも、
リーディングをお志事とする
軌跡の一部だったなと思います。
さて、本題です。
本題ですが
この記事は前振りにあたります。
どうぞ少しだけ
『甲斐武田氏』のお話に
お付き合いください。
============================
私が卒業論文でテーマとしたのは
『甲斐武田氏』でした。
武田信玄公の、武田氏です。
信玄公が
上洛のさなかに亡くなったあと、
信玄公の四男・勝頼(かつより)公が当主となり
武田氏は彼の代で滅びてしまいました。
勝頼公の出自は
現代から見ると複雑で、
父親・信玄公は
母親・諏訪御寮人(すわごりょうにん)の生家である
諏訪家を滅ぼした人間です。
勝頼公の名前に
武田氏の男子に受け継がれる
諱(いみな)『信』ではなく
諏訪家の『頼』が採用されているのも
このためです。
このような背景も一因となり、
信玄公を崇拝してきた家臣団の
勝頼公に対する忠義と団結は
いまひとつであったといわれます。
御家(おいえ)が
今よりずっと大切だった時代の
人間の心情として分かる氣もするし、
見ていないので分からない氣もします。
衰退の決定打となったのは
織田氏・徳川氏連合軍の
鉄砲隊に叩きのめされた
長篠の戦いと言われていますが、
その後も版図を広げた
跡もみられるため、
現在は異論も出ているようです。
武田勝頼公の最期は
戦国の世の厳しさと凄惨さ、
敗者の悲哀に満ちたものでした。
親戚関係にある家臣の
寝がえり情報が入るや、
多くの将兵が彼の元を去ります。
有力な家臣の領地に逃れるものの
その家臣が織田方につき、
領境まで來て鉄砲で追い返され
天目山・栖雲寺を目指す中
織田方の追手にあい、
40余名となった臣とともに戦いました。
そして
奥方と我が子の自刃を見届けて
討ち死にしたとも
自刃したともいわれます。
私は彼の最期について、
『歩く武田氏辞典』のような知人から
このような一説を聞きました。
勝頼公とご正室は
仲のよいご夫婦で
最期のときは
自刃で即死することが出來ずに
苦しむ彼女を見ていられず
その首を落とし
呆然とする中で
敵方に討たれた
その人はご自身が
調査する中でみえてくる
勝頼公を考えると
そんなことがあったんじゃないか
と自分は思う、と仰っていました。
============================
家臣に裏切られたのも
その綻びを繕えなかったのも
あっという間に将兵を失ったのも
現代でいえば自業自得
あるいは自己責任かもしれません。
あの判断を誤った
この一手がまずかった
よって自業自得であると。
実際に長い間、
功に急く愚かな二代目
というような評価が主流でした。
この評価の土台となっているのは、
江戸初期に編纂された
『甲陽軍鑑』という史料での
「強すぎる大将で慎重さに欠ける」
という記述です。
*『甲陽軍鑑』は
信玄公の知性や戦略を
讃える記述がとても多く
勝頼公を諫めるために。
書かれたとも
言われるものであり
また、史料として
どれだけ信用に足るか?の評価が
研究者の間でも分かれる書物です。
では同じ時代の
身内でない人からの評価は
どうだったのでしょうか。
織田信長公は
長篠の戦いで武田軍を破るまでは、
勝頼公への警戒を
決して怠らなかったといわれ
『三河物語』という史料には
勝頼公の首級に対面した
信長公について
「日本にかくれなき弓取なれ共、
運がつきさせ給いて、
かくならせ給う物かなと御仰けり」
(比類のない武人であったが
運が尽きられ、
このようになられたのか)
と、言ったと書かれています。
現代の私たちではなく
同じ時代を生きた人から
浅慮者でもなく
愚かな二代目でもなく
「運がなかった」と評された。
史料というものは
その時代より後に
編纂されたものが多く、
特定の家を礼賛する記述や
大きな誇張や創作が
含まれるものもあり
史料全体として
『三河物語』は徳川家を
『甲陽軍鑑』は信玄公を
(*武田家ではなく、信玄公を)
褒め称える内容となっています。
そのため鵜呑みにすることは
出來ませんが、
近い時代の人が
どういう目で見ていたか?
その前の時代の人から
どのように伝え聴いていたか?
を垣間見ることができます。
「運がなかった」という
信長公の逸話が
仮に創作だとしても
当時そのような
見方があったとは
言えるでしょう。
先祖代々が
築きあげた御家が
坂道を転がり落ちるように
滅びへと向かっていった
その当主の
「やるせなさ」
「どうしようもなさ」に
心を寄せる人はいたのだと思う。
断罪や、
もはや必要のない
批判をしない
『情け』だと感じます。
そして私は、
彼の人生を魂目線でみたときに・・・
========================